初めまして。当ブログの管理人、ヒロキ(@kobatch0820)です。
ここでは僕がどういう人かを詳しく紹介していきます。
長文ですので、時間のある時にゆっくりご覧ください。
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小林 宏紀(こばやし ひろき)のプロフィール

小林 宏紀(こばやし ひろき)、1988年8月20日生まれの32歳独身。
愛知県のサボテンと書道が有名な町出身です。
僕の経歴はざっとこんな感じです↓
- 地元の国立工業大学院を卒業(19〜24歳)
- 新卒で大手自動車部品メーカーに入社(25歳〜)
- 仕事が嫌になり3年で退職(27歳)
- NZワーキングホリデーへ(27〜28歳)
- 派遣社員、リゾートバイトを転々(28〜29歳)
- ニートになる。ブログに力入れ始める(29〜30歳)
- ブログでギリ生活できるようになる(30〜31歳)
- コロナの影響でブログ収入がほぼゼロに。色々と諦める。(31歳)
- NZへ行きたくなったので、季節バイトでお金を貯め始める(←今ココ)
波乱万丈な人生ですが、今は元気でやっています(笑)

性格は人見知りで、人の多い場所が苦手。
基本的に一人で過ごすことが好き。一人でカフェに行き、コーヒー片手に読書したりのんびりしたりすることに幸せを感じます。
とはいえ寂しがり屋な一面もあり、気心の知れた少人数で遊びに行くことは好きです。
心を許すと調子に乗ってバカになりますw

大学時代にワンダーフォーゲル部(登山)に入っていたこともあり、年に数回はトレッキングに出かけます。
ちなみに好きなトレッキングスポットは屋久島。これまでに4〜5回行きました。

ウィンタースポーツ(スキー)歴も長いですが、寒いのが苦手なのでここ数年は全くやってませんw
ポルシェに乗って、彼女(←きっと将来出会う)と海岸線沿いをドライブするのが夢です!
家庭環境で築かれた僕のネガティブ人格
僕は昔から自分に自信がなく、他人の目を気にしてばかりの人生でした。
何か失敗する度に「自分は◯◯に比べてダメな人間だ」「なんでこんなこともできないの!?」と自分を責めてばかり…
なぜ、僕がこのような性格になってしまったのか。
今思えば、僕の性格の起源は、僕の家族にあったと思います。
家族構成はじいちゃん、ばあちゃん、両親、妹の6人家族。(当時はひいおばあちゃんも住んでいたので、元7人家族)
実家には不動産がいくつかあり、不動産収入もけっこうあったのでわりと裕福な家庭でした。
しかし、家庭内の人間関係は最悪と言わざるを得ませんでした。
じいちゃん、ばあちゃんは典型的な昭和気質の人間で、昔から
「苦労しない奴はロクな人間にならない」
「食わせてやっているのだから感謝しなさい」
「ちゃんといい学校出て、就職して、結婚しなさい」
と口癖のように僕に言い続けてきました。
父親は仕事のストレスでギャンブルにハマり、自分の給料はおろか、家族のお金にまで手を出すような人でした。
なにか気に食わないことがあるとすぐに人に当たる、怒鳴る。特に母親には毎日のように暴言を吐いていました。
そんな家庭に生まれた僕は、じいちゃんばあちゃんの価値観に押しつぶされ、父親の暴言(時々暴力)に怯えながら日々を過ごしていました。
「どうすればじいちゃん、ばあちゃんから認められるだろうか」
「どうすれば父親の機嫌を取れるだろうか」
「どうすれば嫌われずに済むだろうか」
ただただ怖かった僕は、何も言えずに毎日そんなことばかり考えていました。
そして気づけば、
- 自分の意見が言えない(言ったら怒られるという恐怖)
- 嫌われるのが怖い(嫌われたら死ぬかもしれないという恐怖)
- 自分を犠牲にしてでも相手の機嫌をとる
という人間になっていました。
完全に他人軸で生きる、自信のない人間の完成です。
(ちなみに、現在は父親とは別居中ですが、たまに会ったりと仲は良いです)
他人の目ばかりを気にして息苦しかった幼少期〜高校時代

前述の通り、僕の人生を振り返ってみると、他人の目ばかりを気にして生きてきたな〜とつくづく思います。(昔ほどではないが、今も気になりますw)
特に父親の影響を受けていた僕は、周りの目を気にして自分の意見の言えない人間でした。
そのため、学校でもクラスの中では目立たない、影の薄い存在でした。
学校の遠足や修学旅行の班決めでもいつも自分は余り物の存在。
いつもクラスの人気者が羨ましくてしょうがなかった。
それと同時に、余り物の僕には価値がないんだ、という無価値感に苛まれていました。
そんなの嫌だ!もう余り物の自分になりたくない!
どうやったら、あの人のように人気者になれるのだろうか?
僕は人に認められたいがために、いつしか自分を捨てて周りに合わせるようになっていました。
こうして周りの注意を引いたり好かれるために、良い子を演じ続けました。
(水筒のお茶をふるまってあげたり、シャープペンの芯をタダであげたり)
今思えば、それはタダ周りにとって都合の良い存在としかみられていなかったのかもしれません。
でも周りがそのように僕を見ていることはわかっていながらも、同時に「自分が必要とされなくなる」ことへの恐怖感から何も言えずに時が過ぎていきました。
高校時代のある日、部活の友達にうっかり本音を言った事がきっかけで周りからドン引きされるようになりました。
本音を言えば何か変わると思っていましたが、言い方が間違っていたのか逆効果でした。
本音を言えないのも辛い。でも、本音を言って嫌われるのも辛い。
人間関係って面倒くさい・・・
何をしても人間関係がうまくいかない・・・
これをきっかけに、なるべく人と関わらない生き方をしようと思うようになりました。
大学のワンダーフォーゲル部で変わり始めた僕の価値観

暗黒の幼少期〜高校時代を乗り切り、何とか地元の国立工業大学へ合格。
今までの人間関係は一掃されたこともあり、心機一転新たな出会いに少しワクワクしていました。
大学は工業系ということもあり90%以上が男でしたが、無駄に気を使わなくて良かったので精神的にも楽でした。
同じ学部で気の合う友達もでき、授業以外はいつも一緒に行動。
飲食店(フードコート)のアルバイトも始めましたが、バイト先のメンバーが皆優しくしてくれてとても居心地がよかった(仕事はキツかったけどw)。
これまで、幼少期〜高校時代では考えられないほど充実し楽しいと思える時期でした。
そして大学2年目の春、アウトドアやキャンプ、登山を中心に活動しているワンダーフォーゲル部(ワンゲル)に入部。
僕の人生を変えるキッカケになった部活でもあります。
集団スポーツ、勝ち負けのあるスポーツが苦手な僕にとって、これなら僕でも楽しめるんじゃないかと思い入部を決めました…
(というのは建て前で、本音は女の子と交流したかっただけw)
登山は思いの外キツかったが、同時に登頂の達成感やキャンプ、アウトドアの魅力にグイグイ引き込まれて、いつしか山が好きになっていました。
ワンゲル仲間達とも気が合い、彼女もできたりして僕の大学生活はまさにバラ色。
さらに、ワンゲルのおかげで僕の価値観にも変化が。
登山はサッカーやテニスなどの勝ち負けのスポーツとは異なり、自分のペースで山頂を目指して歩くスポーツ。
それに山頂への行き方は一つだけとは限りません。
つまり、
- 周りのペース(価値観)に合わせる必用などない
- 自分のペースで生きれば良いんだ
- 人生の正解は一つだけではない
いつしかそう思うようになりました。
今となっては僕がワーホリ始めたのも、ブロガーとして生きていくと決めたのも、これらの価値観がベースとなっていたのかもしれません。
就活の流れに身を任せ大手自動車部品メーカーへの内定が決まる

自分のペースで生きようと思ったものの、結局僕は周りの就活の波に流されていました。
というのも、僕は将来特にやりたい事もなかったし、これからどう進んでよいかも分からない。
それなら、皆が進む道についていった方が楽だと思ったのです。
本当は就職なんてしたくなかったし、社会人として働いている自分の姿が想像できませんでした。
大学院まで進学した理由も、別に勉強したいわけじゃなくて就職活動を先延ばしにしたかっただけですし・・・(笑)
でも、皮肉にも2年という大学院生活はあと言う間に過ぎ、いよいよ就職活動の時期が。
今就職しなかったら周りに取り残される、親や親戚からガッカリされる、そういう変な危機感から仕方なく就活を始めました。
ところが、就職活動は難航。
どうせ就職するなら地元で有名な超人気の大手企業に入って周りにチヤホヤされたい、と思っていました(笑)
しかし、当然のことながら全滅。
それもそのはず、口下手で人付き合いが苦手で、おまけに自信もなければやりたい事が分からないとくる。
こんな僕が他の優秀な同期に勝てるはずがありませんでした。
結局、学校推薦のあまり枠(言い方悪いですが”残り物”の企業)を利用し、僕は地元のある自動車部品メーカーから内定をいただきました。
完全に周りの目を気にした人生を送ろとしていました。
大学院2年の夏休み、山小屋バイトで衝撃的な出会い
大学院2年の夏休みのこと。
無事に就職先も決まり、いよいよ最後の夏休み。
最後なので何か思い出に残る事をやってみたいと思いやってみたのが山小屋のバイト。
場所は白馬岳の登山口付近にある、猿倉荘という山小屋。ここで約1ヶ月間働きました。
仕事は朝5時から夜の7時まで、住み込みなのためほぼ休みなとかなりハードな生活でしたが、今思えばかなり充実して楽しかったな(小屋の管理人はクソ人間個性的過ぎて苦手でしたがww)。
何より山小屋バイトをやって良かったと思ったのが、バイト仲間との出会い。
今まで、学校という一定の価値観だけを持つ人としか付き合ったことがありませんでしたが、ここで出会う人は皆規格外の人ばかり。
バイト仲間の一人に、日本全国の季節バイトを転々としながら生活している30代前半の先輩(男性)がいましたが、その先輩の経験談がすごく面白い。
いつしか自分もこの先輩みたいに自由で生き生きとしたライフスタイルを送りたい!
内定が決まっていながらも、すでにそんな風に思うようになりました。
まさか、本当に実現に向けて動き出すとは、この時は夢にも思っていませんでしたが。
僕の憂鬱な社会人生活(3年間)

2013年4月、いよいよ僕の新社会人生活が始まりました。
1年目は座学研修から工場実習、また配属先が決まったらそこで覚える事が多かったし、何より気の合う同期と遊ぶ機会も多かったのでそれなりに楽しい時間でした。
でも、2年目辺りから会社へ行くのがだんだん嫌になっていきました。
そもそも、技術系の職を選んだ理由は人と関わりが少なそうだったから。
コミュニケーションが苦手な僕は、なるべく人と話さずに済むよう無難に生きていければそれでいいと思っていたんですね。
でも、全然そんなことない。
仕事をする上では当然、同じ部署内だけでなく他部署の人とも関わらなければなりません。
でも人とのコミュニケーションが苦手な僕にとってはまさに生き地獄。
分からない事を先輩に聞くだけでも怖かったし、電話すら嫌だった。
物覚えが悪かった僕は、わからないことを何度も聞かなければならない・・・
聞く度に先輩や上司の「またかよ!」という視線が心に突き刺さる。
1年目はまだ新人という事もあってか任される仕事も限られるし、失敗してもまだ許される風潮でしたが、2年目になるとそうもいきません。
日々、ストレスを感じながら会社に行っている自分がいました。
いつしか、大学院2年の山小屋バイトでの出会いを思い出します。
周りの価値観に縛られない自由な人生を送りたい
好きな時に働いて、好きな時に遊びたい
と。
そう思い始めた社会人2年目は、とにかく自由に生きるためには自分で稼ぐ力を付けるためにいろんなことを試しました。
物を転売する輸入ビジネスだったり、ネットワークビジネスだったり・・・
会社を辞めたい、という一心で副業に取り組んでみたものの・・・
結局どれも自分に合わずに数ヶ月でやめてしまいました。
副業のため、情報商材やネットワークビジネスにつぎ込んだ金額は覚えているだけで150万円以上・・・
今思えば良い経験でしたが、やはり150万円かけて何も変わらなかった時のショックはでかい。
会社員という後ろ盾があったのもあり、どうしても本気で取り組めなかったのが失敗の要因かもしれません。
結局、それから半年ほどはフツーに家と会社を往復する生活を送っていました。
しかし、3年目のゴールデンウィークに転機が訪れます。
5月病というやつ(?)にかかってしまいました。
GWの連休も終わりに差し掛かったころ、急に会社に行きたくなくなったのです。
あまりにも会社に行きたくなかったので、GW明けの2日間は仮病を使って休みましたw
正直、このままブッチして会社辞めるつもりでした。
しかし、このまま会社に行かないと人生終わりだ。
せっかく入った会社だからもっと頑張らなきゃ。親にガッカリされたくない。
人生終わりたくないから、このまま我慢して出社しなければならない。
そう自分を奮い立たせて、心の叫びを圧し殺して会社へ通い続けることを決めました。
でも、心の声はいつもこう
なんで会社へ行きたくないのに行かなきゃいけないの?
休み明けの度にこんな気持ちになるのはもうゴメンだ・・・
そんな気持ちが強烈に湧くようになりました。
そしてついに、僕のなかで糸がプチンと切れたのです。
そうだ、会社を辞めよう!
5月の半ば、ついに僕は会社を辞める決心をしました。
でも、何の理由もなしに会社を辞めると後々聞かれた時に面倒だなと思っていましたw
どうせなら、何か口実を作りたい。
そこで思いついたのが、
「今会社を辞めないと、今後できないこと」
をやる、ということ。
それで、あれこれネットで調べていたら、ワーキングホリデー(ワーホリ)という制度があることを知りました。
これ、面白そうだな!
そう直感で思った僕lは、まずはワーホリの情報収集をした。
どうやらワーホリは協定国で1年間、仕事や語学留学しながら滞在できるというビザらしい。
そして、年齢制限は18〜30歳まで。
当時27歳の僕。
これは若いうちにしかできない経験(口実)としてピッタリだ!と思ってしまった。
協定国についていろいろと調べていき、最終的にはニュージーランドに決めました。
ニュージーランドを選んだ理由は、国のサイズ感のちょうど良さ、あとはなんか緩そうだったから(笑)
ニュージーランド人(Kiwi)は日本人と違って楽観的でゆるーく生きているイメージがあったので、ぜひ現地で彼らのゆるーいライフスタイルを体感したい、と思ったんです(笑)
まぁ、ほぼ直感ですねw
行く場所が決まったら、あとはいつ会社を辞めるか。
それほど貯金していなかった僕は、仕方なく残り半年間だけ会社を続けることにしました。
12月末に辞めれば年末のボーナスがもらえるので、それまでは頑張って働くことに(笑)
不思議と、辞める日程を決めると会社通いもそれほど苦痛ではなくなりました。
「あと◯◯日で会社辞めれる!!」
そう思うだけでウキウキワクワクの日々ww
この半年間はワーホリのことばかりが頭の中にあり、あまり仕事が身に入らなかったような気がします←オイッww
いよいよ会社を退職。ニュージーランドでワーホリを始める

ワーホリの3ヶ月前、職場の上司に退職する旨を伝えました。
特に引き止められることなく、すんなりとOKしてくれたのでビックリでした。
まぁ、僕は仕事ができない側の人間だったので、どうでもよかったのだろう(笑)
2015年12月の中旬、待ちに待った退職日、開放感でいっぱいだった。
でも、同時に不安や寂しさもありました。
安定した職を失った不安と、職場仲間との別れの寂しさ。
あれほど行きたくなかった会社ですが、最後は感謝の気持ちでいっぱいになりました。
さて、退職後はワーホリに向けて本格的に準備を開始。
翌年の1月12日、念願のニュージーランドへ渡航。
ニュージーランドに渡航しても最初はあまり実感が湧きませんでしたが、ついに新たな人生をスタートさせたのです。
面倒くさがりで引きこもりニート思考の僕が、よくぞ単身で海外へ行ったものだ(笑)
とはいいつつも、ニュージーランド到着後の最初の2周間はロトルアの日本人宅でホームステイしました。
英語が全くといっていいほど喋れなかったのでww
IRD番号や銀行口座の開設など、ニュージーランドで働くために必要最低限のことを手伝っていただきました。
あと、ワーホリ中の移動の足となる中古車もホームステイ中に購入しまいた(後にこの1台目の車はお亡くなりになりますw)。
ホームステイ後はいよいよワーホリ本番。
でもよく考えたら、僕は日本人とのコミュニケーションすら大の苦手でした。
そんな僕が、外国人と英会話なんてムリムリww
コミュ障なんてレベルじゃない、意思疎通すら取れるかどうか怪しい。
そんな風に不安でいっぱいだった僕だが、1年3ヶ月のワーホリ生活は意外になんとかなりました。
もちろん、英語話せる人にいっぱい助けてもらったが、話せないなりに努力した結果、相手に意思疎通できるレベルの英会話を身につけることができました。
それに、人付き合いが苦手な僕にも海外のワーホリ友達ができたのは大きかったです。
日本だと人に話しかけることなんてめったにありませんでしたが、ニュージーランドでは外国人に話しかける機会が割と多かった気がします。
これは僕だけに限ったことではなく、同じ時期に渡航した日本人女性(超内気でうつ気味)も1年後には見違えるほど積極的になっていました。
海外デビューとはこのことかww
もちろん、ワーホリ中に波乱な出来事も色々とありましたが、全て良い思い出です。
参考までに、僕の1年3ヶ月のワーホリライフをご紹介します▼
(ワーホリライフに興味ない方はこちらを押して飛ばし読みしてください)
1月

北島、ロトルアで2週間ホームステイ。その後、ホームステイ先のルームメイトと共に同ロトルア市内のバックパッカーズで1週間滞在。
色んな国のワーホリメーカーが集うバックパッカーズはまさに出会いの宝庫。人付き合いが苦手な僕だったが、向こうから話しかけてくれる機会が多く何かと救われた。
2月

2月の初旬、3月から始まるキウイフルーツのパッキングの仕事のアプライをするためにテプケへ。
アプライ後は例のルームメイトと北島のグレートウォーク(NZに9つあり、うち北島には3つある)を1ヶ月間かけて周る。
⇒NZのトレッキング名所「トンガリロ」の景色が神秘的過ぎて感動レベル!
⇒NZのグレートウォーク「Lake Waikaremoana」4日間の波乱万丈な登山体験談
レイク・ワイカレモアナに始まり、ファンガヌイ・ジャーニー、トンガリロと無事に終えたが、途中雨に降られたりキャンプで暴風雨に巻き込まれてテントがぶっ壊れたりと何かと大変だった。でも、今思えば楽しかったな。
3月下旬〜6月

トレッキングの旅が終わったら3月下旬から始まるキウイフルーツのインダクションを受けるために再びテプケへ。
インダクション後は仕事が始まるまで新しいホームステイ先で待機。
そして、3月23日に念願の仕事スタート。
⇒キウイフルーツパッキングの仕事が稼げる?僕が3ヶ月で稼いだ額は?
ニュージーランドで初めての仕事だったが、このキウイのパッキングが思った以上に楽しかった。仕事が楽しいってこういう事なのかという事を人生初めて学んだな。
7〜9月

キウイフルーツの仕事が終わったら次は南島ブレナムでヴィンヤードの仕事。NZdaisukiの掲示板で募集していたので応募してみた。
ヴィンヤード自体はあまり興味はなかったが、そろそろ南島にも行ってみたかったのでちょうど良い機会だと思い決めた。
仕事の紹介者(兼滞在先のシェアハウスのオーナー)は、ヴィンヤードの仕事はかなりキツいと言っていた。「キツいけど、それでも良いなら迎え入れるよ」と。
が、実際にやってみるとそのキツさは想像を絶するほどだった。
➡ヴィンヤードの仕事は想像以上にキツい!?約3か月働いて感じたこと
➡ヴィンヤードの仕事で給料400ドルが未払い!?「F◯CK OFF事件」の真相とは…
あまりの過酷な環境に、当初は1週間で辞めようかと考えていた。が、滞在先のシェアハウスがとても快適だったので結局辞めずにシーズンエンドの9月中旬まで働くことに。
キツかったが、その分楽しかった。あと、頑張りが認められて12月のブレナムのチェリーピッキングにコネで紹介してもらえる事になった。
ブレナムのシェアハウスを出たあとは、Motuekaのアイムホームのオーガニック農園で1週間エクスチェンジをした。
10〜11月

11月下旬から始まるチェリーピッキングまでの間、つなぎとして次の仕事を探そうと思ったが見つからず。
日本食の恋しさも限界を迎えていたので、10月の前半は一時帰国することに。
一時帰国を終えニュージーランドに戻った後、ワーホリ友達と南島を旅行することに。
クライストチャーチ、テカポ、ワナカ、マウントクック、クイーンズタウンを車で周遊。
➡ニュージーランドをラウンド(一周)するために必用なノウハウと費用・持ち物は?
旅行自体は楽しく、特にワナカやクイーンズタウンはとても気に入った。
11月中旬、もうすぐ始まるチェリーピッキングに備えて例のブレナムのシェアハウスに戻る。
そして、同時期にこのブログを立ち上げる事となった。
12月

予定よりも2週間遅れて、いよいよブレナムのチェリーピッキングが始まる(待機中はずっとニートしてたw)。
が、予想以上に稼げなかったのが残念。でも、仕事自体は充実していたし、シェアハウスでの生活も楽しかった。
仕事はクリスマス前に終了。その後、次の仕事先があるクロムウェルへ行くまでの1週間シェアハウスでゆっくりして過ごした。
2017年1月

元旦に入り、いよいよブレナムからチェリーの本拠地クロムウェルへ。10月中にアプライしておいたCentral Cherriesでチェリーソーティング(仕分け)の仕事を始める。
ぶっちゃけ、稼ぎは全然よろしくないが職場の雰囲気が最高に良かった。
国籍のバランスも良く、日本人も結構いたので居心地がよかった。ワーホリ生活で一番楽しい時間だったかも。
➡NZで一番稼げる仕事!?クロムウェルでチェリーの仕事をゲットするための手順
➡日本人にお勧め!セントラルチェリーでの仕事内容や雰囲気について経験者の僕が語る
2月

Central Cherriesで出会った仲間と南島旅行へ。
ダニーデン、インバーカーギル、ブラフ、クイーンズタウン、ワナカ、クライストチャーチ、フォックス氷河など色んな名所を周る。途中、一緒に旅行していた仲間とは色々揉めたりもしたが、結果的に旅は十分に楽しめた。
スカイダイビングやヘリハイクにも挑戦できたので行ったかいがあった。
➡NZのスカイダイビング実体験レポート!お勧めの場所は?料金は?
➡【実体験レポート】Fox Glacierのヘリで行く氷河ウォークが超お勧め!
3月

ワーホリも残り1ヶ月。2月の旅行でかなりお金を使ってしまったため、帰国前に少しでも稼ごうと一緒に旅行した仲間と仕事を探すことに。
最初は南島で探そうと思ったが、仕事がなかなか見つからなかったので、この時期仕事の多い北島のヘースティングズへ向かうことに。
ヘースティングズではブルーベリーピッキングの仕事をゲットしたものの、わずか1週間で辞める。
ピッキングの仕事が退屈だったのもあるが、ヘースティングズの街があまり好きになれなかったのが一番の要因かな。
その後は例の仲間とテプケへ。ちょうどキウイフルーツのシーズンも始まろうとしていたので、あわよくばと思いパッキングの仕事をアプライしてみた。
➡Hastings のブルーベリーピッキングが素晴らしい!仕事環境と稼ぎについて
➡ビザぎりぎりでキウイフルーツのパッキングの仕事を探してみた結果…
その結果は…
4月
何とかキウイフルーツのパッキングの仕事が見つかったが、開始が4月上旬で帰国が迫っていたため2日しか働けなかった。
そして翌週の4月10日、日本に無事帰国して僕のNZワーホリ生活は幕を閉じた。
ニュージーランドから帰国後

ワーホリで一番気がかりなのは、帰国後のことだと思います。
日本では一度社会のレールから外れてしまったら、もとに戻るのは非常に困難と言われていますよね。
よほど手に職がなければ、希望職種での再就職は難しいのが現状です。
でも、僕はある一つのことを決心しました。
就職だけは絶対にしたくない!
そう、ワーホリで「好きな時に働いて、好きな時に遊ぶ」というライフスタイルを味わってしまった僕は、とうてい日本の社会に戻る気はなくなってしまいました。
社会人時代から憧れていたライフスタイルを今実現しているというのに、また元に戻るなんて考えられない。
だから、今後も好きな時に働いて好きな時に遊ぶライフスタイルを突き通していくつもりです。
そんなことしたら、結婚は?将来は大丈夫なの?
そんな心配をされることもありますし、自分でも不安にあることがたまにあります。
でも、そんなことを今考えてもしょうがない。
人間なんていつ死ぬかわからないし、そもそも将来何が起きるかなんて誰も予測がつきません。
安定した職についたところで会社が倒産したり、大災害で全てを失ってしまうかもしれません。
実際に、2020年現在、コロナショックの影響で多くの会社が倒産し、職を失う人も少なくありません。
もう、安定なんていうのはバブル時代の幻想なのです。
どこにいたって、何をしたって人間リスクはつきもの。
どうせリスクを背負うなら、ワクワクすることがいい。
死ぬ前に「あの時やっておいてよかった」と思える人生にしたい。
結婚や安定に縛られて、今という大切な時間を失うのだけはゴメンだ。
今は、そういう理念のもとに好きなことをやる(嫌いなことはやらない)ライフスタイルを実践中です。
このブログの運営方針について

本ブログ「Kiwiスタイル」を運営する目的は以下の3つです↓
- NZで見て聞いて感じた素晴らしい体験を共有したい
- NZの良さに共感できる人と繋がりたい
- NZワーホリ経験者、ワーホリに興味のある人と繋がりたい
もともと本ブログはNZワーホリ体験記として日記感覚で始めたものですが、1〜2年運営してアクセス数が増えるにつれてお問い合わせの数も増えてきました。
「ワーホリ行く前は英語はどれくらい準備していった方がいい?」
「車はどうやって購入した?」
「◯◯の仕事はいつまでに応募した方がいい?」
僕にとってはただの忘備録で書いたつもりのブログだったのですが、予想以上に多くのワーホリさんに読まれ、お役に立てていただけたと思うとなんだか嬉しい。
せっかくなら、このブログをもっとたくさんのNZに興味ある人に届けたい、役に立ててもらいたい。
そして、もしよければNZの良さを理解していただける人と繋がりたい、仲間を増やしたい。
そういう思いから、今はこのブログを運営しています。
近々、NZ好きの人が集まるコミュニティを作ろうと考え中です。
本ブログはそのNZコミュニティの足がかりになればと思います。
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ぜひ、NZの良さを語り合いましょう(*^^*)